1887年のマイケルソンとモーリーの実験など、当時は光を伝える媒質であるエーテルを検出しようという試みが行われていました。 しかしエーテルが存在する証拠は見つかりません。
エーテルは地球に引きずられているため地上ではエーテルの風が極めて弱くなり検出できないと考えることもできます。 それであれば星の光は地球に近づいたとき地球に引きずられるように屈折するはずです。 しかし光行差という現象は星の光がまっすぐに進んできたことを示しています。 科学者たちにはエーテルの概念そのものを否定する意見が出始めていました。
16歳のアインシュタインは自分の頭の中で次のような実験を考えます。 「もし自分が光の速さで飛んでいたら、顔は鏡に映るのだろうか?」と。 エーテルの中を光の速さで進んでいれば、自分から出た光はエーテルの風に押し戻されて止まってしまい鏡に到達できません。 つまり目の前の鏡には自分の顔が映らないことになります。 アインシュタインはこの結論はおかしいと考えます。 この思考実験がアインシュタインの相対性理論の原点になります。
ここで「ガリレオ・ガリレイの相対性原理」について振り返ってみます。 彼は慣性運動している物体どうしはすべて対等な立場だと説きました。 陸地から見れば動いているのは船ですが、船から見れば動いているのは陸地です。 どちらで考えても物理的に不都合は出てきません。 この宇宙のどこにも絶対的な静止基準はありません。 どこを静止基準にするかは各々が好きに決めればよいのです。 基準の選び方によって物理法則が変わってしまうことはないはずです。
ローレンツはエーテルに対して動いている観測装置が縮んだり時間の進み方が変わると考えました。 しかしこの考えはこの相対性原理を破ってしまっているかのように見えます。 物体がエーテルに対して止まっている場合と動いている場合で、長さや時間が非対称になってしまい対等な立場とはいえないからです。
アインシュタインは鏡の思考実験により、エーテルの概念は相対性原理に反しているという考えに至ります。 そして相対性原理を軸にした特殊相対性理論を構築していきます。
1905年アインシュタインは特殊相対性理論を発表します。 速く動く物体には長さの収縮や時間の遅れが起こるというアイデアは既にローレンツが出していましたが、 問題は、これが何に対する速さなのかということです。
先ほど述べたとおり、ローレンツの考えではこれはエーテルに対する速さです。 エーテルに対して速く動いているものほど長さが収縮し時間がゆっくりと流れています。 ただしそこにいる我々は、自分がどれだけの速さで動いているのか、自分の時間がどれだけゆっくり流れているのかに気づくことはできません。
アインシュタインは、そもそもこの発想にエーテルなど必要がないことに気付きました。 エーテルの代わりにどんな慣性系を選んでもまったく同じ結論が得られるからです。
2人の人物がすれ違うとき、自分が止まっていると考えるなら動いているのは相手です。 そう考えれば相手の長さが収縮し、相手の時間が自分よりもゆっくり流れていることになります。
一方で、相手が止まっていると考えるなら動いているのは自分です。 それなら自分の長さが収縮し、自分の時間が相手よりもゆっくり流れていることになります。 理屈上はどちらでもつじつまが合うのです。
しかしこの結論は奇妙です。 常識的に考えれば、2つの物体のうちどちらが長いのか、もしくはどちらの時間がゆっくり流れているのかという問いにはどちらか一方の答えしかないはずです。 ですが奇妙なことに数学的にはどちらが正解とも考えられるのです。
数学的に矛盾がないのであれば、そういった奇妙な長さや時間や捉え方も現実的にはできるはずです。 疑うのはつじつまが合わないと思い込んでいる我々の固定観念の方です。
物体の長さや時間の進み方は、人それぞれの捉え方によって変わってしまうものです。 というのがもはや私たちの感覚からは想像できません。 この世界の構造はどのようになっているのでしょうか。
結論を述べてしまえば、この世界は「時空間」と呼ばれる4次元の構造になっています。
4次元の時空間を正しく想像するのは難しいです。 おそらく我々がイメージしている4次元とは、3次元の空間と1次元の時間から成る構造ではないでしょうか。 しかし相対性理論では時間と空間を切り離して考えることはできません。
物の長さや時間の進み方が捉え方によって変わってしまうというのは、現実的に意味がある話なのでしょうか。
長さや時間はそんな曖昧なものではないように思えます。
例えば2人がそれぞれ自分のストップウォッチを同時にスタートし、同時に止めて比べれば、
どちらの時間がゆっくり流れていたか誰の目にも答えは明確ではないでしょうか。
それがそうはなりません。 時間の進み方が異なるということは、 同時とみなすタイミングも捉え方によって異なります。 ストップウォッチを比べた結果がどうであれ、本当に同時に止めたかどうかで意見が分かれてしまうはずです。 自分が同時と思うタイミングが相手にとっても同時だったとは限らないのです。
また物の長さについても意見が分かれてしまうはずです。 動いている物の長さを測るには、すれ違いざまに前端と後端の位置を「同時に」読み取らなくてはなりません。 この「同時」のタイミングが人それぞれ見る立場によって異なるため、 物の長さも立場によって変わってしまいます。
ならば時間も空間も曖昧で意味のないものなのでしょうか。 そうではありません、時間も空間も4次元時空間の一面を捉えたものです。
コインを手に取って眺めると、正面から見るか横から見るかでまったく違う輪郭が見えるはずです。 ですがあなたはコインの形を立体的に考え、コインが円筒形であることを理解できるはずです。 同じようにもし我々が4次元の構造を4次元のまま考えることができたなら、 誰から見ても変わることのないただ一つの立体像が見えてくるはずです。
立体的な構造を考える上で「距離」は重要な意味を持ちます。 例えば以下に示す2つの像。 これがまったく同じものだと認識できるのは、2つの点を結ぶ距離がどこも変わっていないからです。 x軸 や y軸 は見方によって様々な取り方ができますが距離はどう見ようが変わりません。
距離 $L$ はピタゴラスの定理で求めることができます。
2次元平面であれば、 $L^2 = x^2 + y^2$
3次元空間であれば、 $L^2 = x^2 + y^2 + z^2$
4次元の時空間においても距離を考えることができます。
それがこの世界における本当の意味での距離。
時空間上の距離 $s$ です。
$s^2 = (ct)^2 - x^2 - y^2 - z^2$
我々が4次元の時空間を想像するのが難しい理由がここにあります。 もはや距離が実数になるとは限りません。 実数でもない距離など想像できるでしょうか。 そのため我々は4次元の時空間を考えるとき、考えやすいように時間と空間をそれぞれ別々のものとしてイメージしています。
4次元の時空間をそのまま絵に描くことはできません。 紙面に表そうとすれば時間と空間を分けて描かなければならず、どうしても歪んだ表現になってしまいます。 時空間をありのままにイメージすることは難かしいのです。